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二十四の瞳


.2005.01.29

入学した当時、校舎も寄宿舎もできていませんでした。
そのため校舎は旧市立工業の廃屋のような校舎を半分借りていました。
もう半分は中央高校と言う定時制の高校でした。
仮寮はこれまた廃屋のような職業訓練校の空家で、寮生は当初12人、能登方面と加賀方面の出身者で占められていました。
能登や加賀は富山県から越境してくるより遠かったのです。

12人のはずが初日は11人しかいませんでした。
腎臓を患っていた谷口拡がすこし入寮が遅れたのです。
一日遅れでまったく同じ顔をしたお母さんと一緒に寮へ来たので思わず笑ってしまいました。

仮寮は本多町の片隅にあり、タクシーの運転手でも迷うような入り組んだ場所でした
そこから泉野にあった仮校舎まで歩いて通いました。
当時犀川に掛かっていた下菊橋は洪水のため橋桁の真ん中が折れて下がっていました。
かえって車が通らずよかったような気がします。
橋の手前(寮側)には城南(あるいは菊川か?)郵便局と城南スーパー(東京ストアだったかな?)がありました。
城南スーパーでは初めて味噌味のインスタントラーメンを見て感激し、そればっかり買っていました。
昼ご飯はあまり記憶にないのですが、買い食いするところもなく、食べに帰った覚えもないのでおそらく寮から弁当が届いたのだろうと思います。
おかしなことに帰り道のときだけ吠えるスピッツがおり、ドッキリするのが嫌いな私はいつか殺してやる、と心に誓っていました。

寮の裏は取り壊された建物の基礎がそのまま残ったかなり広い空き地になっており、部活もなく帰ってくると暇なので明るいうちはキャッチボールやバレーボールのパスなどをして遊んでいました。
休日になるとたまには歩いて片町まで出ました。用事はたいがい宇都宮書店か北国書林、あるいは確か.鈴屋という無線パーツ屋さん、中部無線などです。
寮の近所には県立工業と金城高校があり、その横の細い路地を歩いていくと本多町の大通りに出ました。
金城高校は私立の女子高で通学する女子高生を寮の誰かがからかったという苦情が寄せられたことがありました。
仲間内では心当たりはなかったので、からかわれるほどのもんか、あつかましい、冤罪だと憤慨しましたが、たった12人の寮生でも付き合いの薄いやつもいますので、ひょっとしたらいたのかもしれません。

帰省するときは駅まで歩くほどの気力もなく、郵便局近くのバス停から城南回りというバスに乗りました。
帰省している間、食事をキャンセルすると月末に幾ばくかのお金が戻るので、もうけたような気になり文庫本を買いました。
実際には食事を減らさなきゃ本が買えないほどのことはなかったのですが。

寮監として今は亡き問谷先生がずっと一緒に一年間暮らしました。
大学院を出たての先生はまあ、兄貴分といった感じでした。
私の地元の飯田高校出身ということで特に親近感はありました。
問谷先生は消灯時間を過ぎるとまだ結婚前だった奥さんと毎晩長電話をしていました。

ずっと後になって小松から通っていた電気の柏田が入寮して寮生は13人になりました。
小松から通っていた奴はほかにもたくさんいたのに、柏田がどうして入寮したのかはわかりません。
こいつを入れると二十六の瞳となってしまい、面白くもなんともなくなるのでいなかったことにしましょう。

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自育不利人の たそがれ懐古録