私が最初に赴任したのは広島支店の管轄する現場の建設機械の整備と入出庫を業務としていた西条整備工場というところでした。 西条と名前はついていても最寄の鉄道駅が西条だっただけで、実際は西高屋町桧山という地区にありました。 当時の桧山区長は桧山さんといいましたが、工場の敷地を買収するときに尽力していただいたそうです。 桧山さんの奥さんが寮のまかないをしていました。みんな桧山のおばちゃんと呼んでいました。 工場はまだできたばかり、と言うか広島支店そのものが広島出張所から支店に昇格して間もなかったようです。 造成した法面は雨ですぐ崩れ、すると支店機材課長で工場長兼務の福永さんが支店からやってきて 「君ら、いったい何を見とった!」と叱るのです。 叱られながら夜中の雨で崩れるんだからしょうがないだろう、と内心はあかんべーをしていました。 それにしても雨が多い年で、瀬戸内海気候は雨が少ない、と社会の本に書いてあったのは嘘だと思いました。 雪だって北陸とちょっと少ないぐらいでけっこう降りました。 広島支店にいる間、ほとんどは工場勤務でした。 働いていたおばさんたちの中には女学生動員で原爆に会い、被爆手帳を持っている人もいました。 仕事はつらいと思いませんでしたが、私事では三回も失恋してずいぶんつらい思い出ばかり残りました。 ずっと後になって一度工場を訪ねてみたことがあります。 そのときはすでに無人となっており、鍵の掛かった門の前で引き返しましたが、入らなくてもどこに何があったか手に取るようにわかりました。いや、今でもわかります。 佐藤工業も倒産してすでに二年経ちました。工場があったあたりに山陽道が通っているようです。 現在はおそらく人手に渡っているでしょう。 |