私が最初に赴任したのは広島支店の管轄する現場の建設機械の整備と入出庫を管理していた西条整備工場というところでした。 西条と名前はついていても最寄の鉄道駅が西条だっただけで、実際は西高屋町桧山という地区にありました。 工場のあるあたりでは毎年マツタケ山の入札がありました。 幾ばくかのお金で1シーズンのマツタケの権利を買うのです。 私が広島に赴任した年、業界用語で入札不調とでもいうべきか、誰も札を入れなかった山がったそうです。 当時の桧山区長は桧山さんといいましたが、工場の敷地を買収するときに尽力していただいたといういきさつもあり、頼まれて断りきれず工場が五千円払って落札したらしいです。 その年はなんとマツタケの当たり年でした。 たぶん福永機材課長(兼西条整備工場長)の一存で支店で次の日曜日に松茸狩りをやろうという話になりました。 課長はそれまで私ともう一人の新入社員の田嶋さんに、「君らは仕事せんでいいから、マツタケ山の番をしてなさい。」とむちゃくちゃなことを言いました。 一日中山にいるわけにもいきませんが、一応課長命令なので朝夕だけは二人で護身用の棒を持って山を見回ることにしました。 居直り強盗のような松茸泥棒もいたらしいです。広島では松茸泥棒のことをナバ泥棒と呼んでいました。 田嶋さんは大学時代、少林寺拳法をやっていたそうで、私は大船に乗ったつもりでいました。 松茸はシバタケみたいに足の踏み場もないほど出ていました。 見回りといっても傘の開いた松茸は放っておくわけにもいきません。 つぼみだけ残して朝晩取っていたら毎日けっこうな量になります。 まかないの桧山のおばちゃんは食費を安く上げようと気を使い、朝昼晩と三食松茸を使った料理を出しました。 それが一週間続いたわけです。 それでもう松茸は食べたいと思わなくなりました。 後日談 支店の松茸狩りのあとも松茸は出たので取っては来ましたが、珍しくも何ともなくなっているので宮崎の母の実家に少し送ってやることにしました。 雨上がりの松茸は腐りやすいと地元の人が言ったので、電動機を乾燥する乾燥機の中にちょっといれて軽く乾かすつもりがすっかり忘れて、三日後に取り出してみると干椎茸みたいになっていました。 まあいいや、と「干松茸」と書いて送ってやりましたが、お湯で戻すとちゃんと松茸の香りはしたそうです。 その後、あの山にはあまり松茸は出なかったそうです。 素人が荒らしたせいか、たまたま当たり年だったのかわかりません。 |