広島に来て三年目、工場の機電職員で現場の経験のないのは私だけになりました。 とはいえ、山陽新幹線ももう現場は出尽くして出番はありません。 そんなとき可部町から加計町へ行く県道191号線に290mの道路トンネルの工事が出ました。 山肌にへばりつくような道路の下には太田川が流れており、もっとさかのぼれば三段峡へとつながっていました。 200馬力の二気筒のコンプレッサー一台、本来なら機電職員の常駐するような規模ではないのですが、福永課長が内山所長に頼み込んだのか、あるいは人件費は工場持ちでいいと言ったのか、ずっとお守をしていなければ動かないような古い機械でした。 もともと機電職員が必要とされるのは機械のお守ではなく、着工当初の設備の設置です。 いったん掘り始めてしまうと、窄抗(火薬を詰める穴明け)、発破、ズリ出し(発破でできる岩石をどこかに処分)と毎日同じサイクルの繰り返しになり、機械が壊れなければ何もすることがありません。 順調なら一回の発破で削岩機のノミの長さ分1.5m、これを昼夜で二交代の3m毎日延びていくトンネルに電線を延ばしていくくらいでした。 停電すると仕事になりませんので、活線作業と言って200Vの電圧が掛かったまま裸の電線をつないでいくのです。 ゴム手袋にゴム長靴ですが、あんまり気持ちのいいものではありませんでした。 毎日これしか仕事がなく、しまいにゃ電気屋さんと呼ばれていました。(^^;) この頃は西条町民合唱団にいて、顔を見たい人もいましたので、練習日の火曜日(だったかな?)には用もないのになんだかんだと工場に用事を作って西条整備工場に帰っていました。(^^;) そして現場を空けている間にこのコンプレッサーも焼いてしまいました。(ピストンがシリンダーに焼きつくこと) またも内山所長の現場でコンプレッサーを焼いてしまったのです。 しかし簿価がほとんどないような古い機械だったので特に叱られた覚えはありません。 |